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また出たか、極めて拙劣で愚劣な書き込み ニュース記事に関連したブログ

2011/10/13 23:51

 

子供をダシに…風評被害拡大させる「プロ市民」 - 政治・社会 - ZAKZAK http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20111013/dms1110131601011-n1.htm via @zakdesk あまりにもあほらしい低レベルで愚劣な記事が掲載されているので、正直爆笑してしまった。大新聞のプライドのかけらもない素人の作文がなぜか掲載されているから不思議だ。 「地元エゴ」は原発村のことではないの?精神論ではなく本当に危ないから避難しているくせに、それでもこの筆者は実際に土砂降りに遭ったそうだから完全な被曝でアウトだろう。原発村に住むのは本人の自由で勝手だが、どんな健康被害を受けて苦しんでも自己責任と言うリスクつきである。こういう人間は精神論オンリーで科学的根拠にもとづいて考えないから困る。危ないのは事実危ないから危ないのであってそれ以上の何物でもない。あとで取り返しのつかない結果になっても、それは勝手で自己責任で構わない。しかしそれが自分の「子ども」の場合なら、親としては自己責任では済まされない。 「予防原則」と言う国際ルールを無視した愚かな振る舞いであり、そもそもこういう書き込みが「風評被害」と呼ぶにふさわしい。掲載する側も、洒落かジョークのつもりか知らないが、いい加減にしていただきたい。

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関連ニュース

世界からの不信、当然の結果 ~自暴自棄を辿る日本~

2011/04/09 04:20

 

私は2001年に『リベラル・パワー』という初単著を出版した。
そこには私自身がこれまでの人生の中で味わってきた体験談や経験値を
中心に、さまざまな識者の日本文化論、日本人論の共通点を分析し、
一定の私的見解を結論付けたものである。

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAM04530/

出版当時は、いろいろ反響もあり、いくつかの社会科学関係の学会や
講演会に招かれた。
しかしそこでの意見はいずれも「偏り過ぎ」「日本人を足蹴にしている」
「日本だけでなくどの国も同じ」といった、明らかに日本人擁護の
反論ばかりが百出した。
挙句の果てに、私を日教組びいきとか、左翼ラディカル派の意見と同じ
といった偏見まで飛び出す始末。
逆に日本にやって来ていた留学生や外国人からは反応や共感をもらった。
日本の学者も「井の中の蛙」だらけであることを体感した。

しかし私が10年前に拙著で分析し、語った現実が、その後の日本の
行く末、日本での出来事を絵に描いたようになぞらえている。
年がたつにつれ、私の拙著での指摘したこと、分析し得たことはすべて
ますます真実味を帯び、確信に変わっていった。

この日本社会は根本的に封建的で鎖国的な内弁慶社会であり、他国や
国外のことなど何も考えずも想像せずとも、安穏と暮らしていくことが
できる。
しかし、いざとなった場合に対応を迫られたら、ペリーの黒船来航の
時と同様、うろたえて何もできない。ただ意のままに流されるだけの
判断力しか持ち併せていないのだ。

江戸時代から何百年たっても、日本人の性向や欠陥は変わらない。
それは「内弁慶」「甘え」「場当たり主義」「井の中の蛙」である。

とくにここ数年は大手メディアも含めて無責任な自画自賛、日本礼賛と
いった風説が目立った。しかしそれは今に始まったことではない。

95年に海外の学会で発表した際に、私はこうした日本人のどうしようも
ない性格をことごとく批判した論文を発表した。
その時に日本人の学者がものすごい剣幕で反論してきた。
彼曰く「日本を自己否定するなら、東洋と西洋との対話ができない」と。

この東洋と西洋との対話という構図自体が日本人が大好きな単純な
二分法であって、その短絡的思考にそのまま乗っかっているだけなのに
本人が気づいていないのだ。
現実は「東洋=日本」「西洋=欧州」なんてものではない。

何がおかしいかというと、海外の学者は東洋や日本に好奇心を求めて
学びに来る。それに対して日本の学者は自分のご当地自慢話ばかりを
するからだ。これは明らかに滑稽そのものではないのか。
これで果たして「東西の対話」が成立しているのか、と問いたいのだ。

まさに「対話」というものを理解できていないから、「独りよがり」の
態度しかとれなくなるのだ。コミュニケーション不全症候群である。

対話のない社会
http://booklog.jp/asin/456955847X

日本人は自分の対話能力のなさや劣等感を隠すため、わざと思いやりだの
優しさだのといった美辞麗句でその場を取り繕う技術だけを発展させて
きた。しかし相手との真の対話なくして「思いやり」も「優しさ」も
あり得ない。それはただの自己満足にすぎない。
あとは今のAC広告が盛んに林立てている「ガンバロウ日本」風の
「精神論」ばかりである。

この中身のない、具体的解決方法を示さず、やたら気合いだの根性だの
を強調する軍事教練的な「精神論」こそが日本を敗戦に追い込み、
多くの若者を死に至らしめ、特攻隊やカミカゼを強行し、日本の戦後教育に
おいて優れた人材の育成を根絶やしにしてきたのである。

日本社会というのは巨大組織や国家権力から、個人的人間関係に至るまで、
どこまでもタテマエとホンネを区別し、見せかけばかりでその場、その場
を取り繕ってきた。そして問題の本質を見て見ぬふりをして逃げてきた。

その「本質の先送り」のツケがどんどん膨れ上がって、とめどもなくなり
醜態をさらすことになっているだけの話だ。

未だに政府や東電やNHKは「面子」と「タテマエ論」ばかり振りかざし
続けている。
しかしその実態は、今や海外メディアや国民にまで暴露されている。
欧州では「天下り」という言葉まで流行るに至っている。

最初は地震と津波被害に同情していた海外諸国も、いずれは日本の
総無責任主義に不信を抱き、辛辣な態度、信頼の失墜につながっていくと
私は3週間前に指摘しておいた。
そのとおりになってきている。原発事故が長引けば長引くほど、日本は
世界から批判を浴び、日本国自体の信頼が失われ、すべての産業の株は
売られつづけ、貿易経済や金融はやがて破綻の一途をたどることになる。

そのくらいのシナリオは商売をやっている人なら誰でもわかることだろう。

日本の経済成長の象徴として量産された「原発」そのものが、逆に
日本の経済を破壊する元凶になろうとは、皮肉なものである。

経済界も現時点でそのくらいのことは見越しているのか、いないのか、
未だに原発推進などという財界人が多い限り、本当にこの国のトップは
頭がおかしい(あまりにも想像力と知恵がなさすぎ)と言わざるを得ない。

世界的にも得意な「日本人」の実態があらためて暴かれてしまった。
これからは超高齢化社会の急進行と、それでもなお経済成長神話
取り付かれる、無責任で判断力を欠いた時代錯誤のリーダーたちによって、
本当に日本社会は崩壊していくだろう。

それを止めるには、政治だけでなく、日本社会そのものの構造を根本的に変えるしかないし、日本人の多数の「なれ合い的慣習」「発想法」を根本的に転換させるしかない。しかし、いったいどこの誰にそれが可能なのか?



【参考】

放射性物質まき散らす日本 海外論調「同情」から「不信」
http://www.j-cast.com/2011/04/04092152.html?p=all

「放射能が朝鮮半島に飛んでくる」 韓国はパニック、学校「一斉閉鎖」
http://news.so-net.ne.jp/article/detail/569902/?nv=r_cmn_photo

汚染水放出、中国紙が日本の対応を批判
http://news24.jp/articles/2011/04/06/10180251.html

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震災で明らかにされた、日本人型組織のとてつもない悪弊

2011/04/03 03:20

 

今回の東日本大震災を受けて、あらためて日本人の行動規範の致命的欠陥が露呈された。

東電、原子力保安院、経産省厚労省水産庁などの功罪が徐々に海外にも伝わり、日本の官僚組織の問題性がロシア中国にまで指摘されるようになった。
今や「天下り人事」という言葉も欧米のメディアで話題になっている。ひたすら組織の面子を保つために、国民の健康も生命も財産もないがしろにする官僚組織の実態があらためて浮き彫りにされた。

またコントロールタワーを欠き、現場でも混乱、政府内でも混乱、「想定外」の事態に何も備えていない(神戸の大震災の時と同じ>教訓がまったく生かされていない)おかげで、被災地の人々は孤立、混乱、疲弊、生命の危機という最悪のシナリオが生じている。

日本のメディアの偏向報道や隠蔽体質も、パニックを避けるのと権力にこびる体質があらためて浮き彫りにされた。海外のメディアの報道とは180度正反対のニュースばかりがされている。肝心の国民が得たい情報やデータは流されず、いたずらに「安心・安全」という言葉を繰り返すだけの権力奴隷となり果てている。被災地ではひたすら政府の言うことだけを信じている人々が途方に暮れてTVを眺めている。あとは「がんばろう」「立ち直れる」といった負け惜しみに近い精神論ばかり。あとは「日本人は冷静だ」「海外が日本人の冷静さを賛美している」といった自画自賛論ばかり。今の現実をどうすべきか打開策すら真剣に国民に伝えようとせず、精神論や自画自賛論を垂れ流すメディアは不要である。

今回の震災津波は100年に一度は現地で起きてきたもので、NHKの言うような「未曾有」の被害ではなかった。想定外では済まされないものであった。いわば人災である。過去のことはまったく意に介さないのか、水に流してしまったのか。

今回のことで多くの海外の人々から批判を浴びた。「なぜ日本は広島・長崎の悲惨な体験を受けながら、その教訓を生かせず、核エネルギー開発を進め、原発保有大国になったのか。」「なぜ地震や津波の多いことがわかっていながら、あれだけ原発を立てたのか。」海外の人々にはこの日本人の無知蒙昧ぶりをまったく理解できない。

これらを総まとめすれば「組織的無責任体制」といえるだろう。いざとなったら誰も責任をとらない。誰もコントロールできない。誰も自分や周囲の判断ができない。誰も危機管理ができない。これが哀れな日本人の本当の姿である。

自然災害と人災を同じようにとらえて精神論をぶつだけなら、誰も何も守ることはできない。何が安全保障か、何が国際競争力か、何が技術立国か。

この国の言説は世界的にもきわめて滑稽で珍奇であり、笑い者になるばかりである。このどこがいったい先進国なのか、「日本の技術は世界一」「日本の官僚は優秀」「日本の原発は安全」そういう嘘の建前論ばかりの偽装欺瞞で塗り固めた自画自賛をし続けてきただけである。そういう大人の精神自体が、実は幼稚で意志や判断力薄弱極まりないためである。そんな大人を若い世代や子どもが信用するだろうか。

 

さらに今回の震災に対する政府やマスコミの対応の特徴については、今まで言い続けてきた日本と欧米の発想の違いをここで再度強調できる。


1.欧米の先進国では、事態が悪いとその内容をできるだけ公に公開し、大勢に訴えて、オープンな議論と協力を求めようとする。   (いじめやDV問題にしても同じ)

2.日本では、事態が悪いと、配慮するという建前でその内容をできるだけ秘密にして隠しつづけ、さらに悪化して手遅れになってから、後で真相が判明するということの繰り返しを続ける。

3.欧米の予防原則は「最悪の場合」を想定し、その場合にどう対処すれば よいかというマニュアルや予防訓練からはじめる。

4.日本のリスク管理は「安全第一」を前提とし、問題となった場合の事態を想定せず、日常マニュアルの履行をひたすら徹底する。

そもそも欧米と日本では「配慮」「リスク管理」の意味が180度異なるため、危機的状況となった場合の差が歴然と出るのだ。

これは対処するための思考法が正反対であるがゆえに起こりうる事態である。いったい、どちらが解決に向けての善処策なのであろうか?
 


これらの原因の大半は軍隊的組織体制の常習化と、批判的思考の欠如が原因である。これをすべての組織や個人が克服できない限り、この国の将来も子どもの未来もありえない。災害のたびに同じことが繰り返され「ごめんなさい」で済ますのでは、いくら人間の命があっても足りない。事が起きてからでは遅いのに、いつまでも同じことばかりを繰り返し、この国の人々はその悲哀な人生に耐え続けている。本人にいくら自覚がなくとも、こんな自由と人権のない、不幸な経済発展国に生まれてきた人々はまったく不幸せである。
 

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沖縄「ゆすり」発言は、一部を除いてすべて正論である

2011/03/09 18:16

 

いつものとおり一部だけ引っ張ってきて揚げ足を取るようなマスコミの報道ぶりには呆れるばかりである。
しかも大学生への講義内容なんだから、そんな類の講義は日本も含めてどこの大学でも日常茶飯事に行われていることだ。
今話題の沖縄と引っかけて無理矢理スクープ記事にしたとしか思えない。馬鹿ばかしい。

以下、メア氏の発言の全文を引用する。
http://sakuya7.iza.ne.jp/blog/entry/2187382/

(転載開始)
==============================================

私は2009年まで在沖米国総領事だった。
日本にある米軍基地の半分は、沖縄にあると言われているが、
その統計は米軍のみが使用している基地だ。

もし日本の自衛隊と米軍が共同使用している基地を考慮すると、
沖縄の基地の割合はかなり低い。

議論になっている在沖米軍基地は、もともと田んぼの真ん中にあったが、
今は街の中にある。沖縄人が、基地の周囲を都市化し、
人口を増やしていったからだ。

在沖米軍基地は地域の安全保障のために存在する。
日米安保条約下の日本の義務は基地のために土地を提供することだ。
安保の下での日米関係は不均衡で、
日本にとっては有利だが、米国にとっては損失だ。
米軍が攻撃された場合、日本は米国を守る義務はないが、
米国は、日本の国民と財産を守らなければならない。

集団的自衛権は、憲法問題ではなく、政策の問題だ。
海兵隊と空軍は、1万8千人ほど沖縄に駐留している。
合衆国は二つの理由で沖縄の基地を必要としている。
基地が既に沖縄にあるという点と、地理的にも重要な点である。

(沖縄)県民は米国よりも日本に怒り、
(東アジアの地図を指し示しながら)在日米軍は、東京に司令部がある。
物流中核の位置にあり、危機が発生した場合、補給と軍の調整ができる。
米国の基地として最もロシアに近い三沢基地は冷戦時に重要な基地だった。
岩国は韓国からたった30分だ。

その上で沖縄の地理的状況は、地域の安全保障に重要である。
沖縄はかつて独立した王国で、中国に貢ぎ物を献上していた。
とはいえ、中国の一部では決してなかった。

米国は1972年まで沖縄を占領していた。
沖縄県民は、米国よりも直接日本に対し怒りを持ち不満を募らせている。
民主党政権は沖縄を理解していない。

日本政府はコミュニケーションの「パイプ」を沖縄に持っていない。
私が沖縄県民にコンタクトを取りたいと依頼したとき、
民主党の高官は「ぜひ! ぜひやってください」と言った。
まだ自民党の方が、最近の民主党よりも沖縄に通じていて
沖縄の懸念について理解していた。

(沖縄県民の)3分の1の人たちが、
軍隊がなければより平和になると信じている。
そのような人たちと話をするのは不可能だ。

2009年の総選挙は、民主党へ力をもたらした。
それは日本政府の初めての政権交代だった。
鳩山氏は左派の政治家だった。

民主党政権で、鳩山総理大臣だったのにもかかわらず、
日本とアメリカは5月に2+2(ツー・プラス・ツー)合意を成し遂げた。
(メア氏は教室を離れ、同僚2人が日米の経済関係について講義した。
その後メア氏が戻って講義を再開し、2人は部屋から出て行った)

本土には(米軍基地を)受け入れる場所がない。
米国は、沖縄における軍事的負担を減らすため
8千人の海兵隊を普天間からグアムへと移転させる。
この計画は米国が、地域での安全保障や抑止力を保つための
軍事的なプレゼンスを維持するものになる。

ロードマップの下で、日本政府は移転に必要な資金を提供するとしているが、
このことは日本側の明白な努力の証しだ。

民主党政権は計画の実行を遅らせてきたが、
私は現行案を履行してくれるものと確信している。

東京は沖縄の県知事に伝える必要があるのだ。
「お金が欲しければ、(移設案に同意し)サインしなさい」と。
ほかに海兵隊を配置する場所はない。
民主党は本土での代替施設を提案したが、本土には受け入れる場所がないのだ。

日本の「和(調和)」を重んずる文化は意見の一致に基づいている。
合意形成は日本文化において重要なものだ。
日本人はこれを「合意」と呼ぶ一方、それは「ゆすり」を意味し、
彼らは「合意」の文化を「ゆすり」の手段に使っている。
合意を模索するとみせかけ、できるだけお金を引き出そうとするのだ。

沖縄の人々は日本政府を巧みに操り、ゆすりをかける名人である。
改憲は米国の利益にならない。

沖縄の主要産業は観光業だ。農業もあるが、主要産業は観光業だ。
沖縄の人たちはゴーヤーを栽培しているが、他県の栽培量の方が多い。
沖縄の人は怠惰すぎて栽培できないからだ。

沖縄は離婚率、出生率(特に非嫡出子)、
度数の高い酒を飲む沖縄文化による飲酒運転率が最も高い。

日本に行ったら本音と建前に気を付けるべきだ。
本音と建前とは、言葉と本当の考えが違うということだ。

私が沖縄にいたころ、「普天間飛行場は特別に危険ではない」と話した。
沖縄の人たちは、私の事務所の前で発言に抗議した。
沖縄の人たちは普天間飛行場が世界で最も危険な飛行場だと主張するが、
彼らはそれが本当のことではないと知っている。
福岡空港や大阪伊丹空港だって同じように危険だ。

日本の政治家はいつも本音と建前を使う。
沖縄の政治家は東京での交渉で合意しても、
沖縄に帰ると合意していないと主張する。

日本文化があまりにも本音と建前を重視するので、
駐日米国大使や担当者は真実を話すことによって常に批判される。

米軍と自衛隊は思考方法が違う。
米軍は起こり得る展開に対し準備して訓練するが、
自衛隊は実際の展開を準備せずに訓練する。

たいてい夜間に戦闘が起きている現代の戦争では夜間訓練は必要だが、
地元の人は米軍の夜間訓練に反対する。夜間訓練は抑止力維持に不可欠だ。

私は、日本国憲法の9条が変わるべきだと思わない。
私は、そもそも9条が変えられることを疑問に思っている。
もし日本が米軍を必要としないことを理由に改憲したのなら、
米国にとってよくないことだ。

もし改憲したら、米国は米国の利益のために
日本の土地を使用することはできなくなるだろう。

日本政府が現在、支払っている高いホストネーションサポート
(接受国支援)は米国にとって有益だ。

私たち米国は日本に関して非常によい取引を得ている。
==================================
(転載終わり)



これって「沖縄の人々は怠惰」「ゆすりの名人」といった感情的表現を
除けば、すべて的を射た、的確な、まったくの正論である。

とくにこういう指摘は『菊と刀』以来、日本文化論や日本人論で何十年も
語り継がれてきた事実だ。

>日本の「和(調和)」を重んずる文化は意見の一致に基づいている。
>合意形成は日本文化において重要なものだ。
>日本人はこれを「合意」と呼ぶ一方、それは「ゆすり」を意味し、
>彼らは「合意」の文化を「ゆすり」の手段に使っている。
>合意を模索するとみせかけ、できるだけお金を引き出そうとするのだ。

>日本に行ったら本音と建前に気を付けるべきだ。
>本音と建前とは、言葉と本当の考えが違うということだ。

>日本の政治家はいつも本音と建前を使う。
>沖縄の政治家は東京での交渉で合意しても、
>沖縄に帰ると合意していないと主張する。

>日本文化があまりにも本音と建前を重視するので、
>駐日米国大使や担当者は真実を話すことによって常に批判される。


しかもこの指摘には笑ってしまう。

>米軍と自衛隊は思考方法が違う。
>米軍は起こり得る展開に対し準備して訓練するが、
>自衛隊は実際の展開を準備せずに訓練する。

自衛隊という軍隊がいかに日本人的組織で「タテマエ」だけの訓練ばかり
をしているかが垣間見える。
日本の警備会社でも警察でもそうだが、ありうべきさまざまな実践を
想定したシミュレーション的実践訓練をしない。

だからいくらハードを充実させても、人材が機能しないから、
実践で役に立たないのだ(笑)

日本のあらゆる組織は、あえて個人に頭を使わせて行動できないような、
ロボット訓練を継続している。これでは臨機応変的な対応は不可能である。

結局日本人はいつまで経っても「井の中の蛙」で世界の現実を見つめようと
していない、だから海外の国々が日本と付き合う場合、外交で苦労する、
というのが、ケビン・メア氏の話の要諦である。

少なくともこのような外交的態度は、ペリーが黒船で来航して以来と
全然進歩がないといえるだろう。

マスコミはいったいこの話のどこを重視しているのか、真実に目を向けず
揚げ足取りばかりに走るだけのマスコミなら、ゴシップネタをあら探しする
週刊誌とまったく同じレベルで、無意味である。
 

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Yahoo ! 知恵袋の回答はテキトー

2011/03/01 03:46

 

Yahoo ! 知恵袋に投稿されている匿名の回答が「ベストアンサー」とか印をつけられておきながら、いつもかなりいい加減なものが目立ち過ぎることに、憤りを感じていた。
どうせ匿名の質問だから、回答も適当に書いておこうという腹なのだろうが、きっちりと調べることが習慣化している専門家にとってみれば、このレベルの回答で利用者は満足しているのか、あるいはプロとアマのレベルの違いがこれでは一般の利用者にわからなくなってしまうのではないかという懸念も大きい。

今回の京大の入試問題の回答にしても、英作文を見たところ間違いだらけで、このベストアンサー回答をまる写しして解答を作成しても、そんなに高い点数は取れないとすぐにわかるような、素人回答だ。最初の文からどれが主語がわからず、動詞が2つも入っており文が不成立。この時点で大幅減点対象である。単語もいくつか不適切な単語が使われており、京大合格者レベルだと、こんなミスはしないだろう。

そもそも送られてくる回答の質がテキトーなのだから、今回の京大の受験生もそれほど気に病むなと言いたい。

ネット社会の功罪は、情報のレベルや信憑性を裏付けられないことである。利用者も賢明でなければならず、自分自身でその情報のれべるや信憑性を再確認しなければならない。
 

以下は被害届の出た、問題の京大の英作文問題より抜粋引用。 (Yahoo! 知恵袋の回答と比較するために、筆者がつくった模範解答をつけておく。)
 

【問題】


(1)楽しいはずの海外旅行にもトラブルはつきものだ。たとえば悪天候や自然災害によって飛行機が欠航し、海外での滞在を延ばさなければならないことは、さほど珍しいことではない。
いかなる場合でも重要なのは、冷静に状況を判断し、当該地域についての知識や情報、さらには外国語運用能力を駆使しながら、目の前の問題を解決しようとする態度である。
 

(2)人と話していて、音楽でも映画でも何でもいいが、何かが好きだと打ち明けると、たいていはすぐさま、ではいちばんのお気に入りは何か、ときかれることになる。この問いは、真剣に答えようとすれば、かなり悩ましいものになりうる。いやしくも映画なり音楽なりの愛好家である以上、お気に入りの候補など相当数あるはずであり、その中から一つをとるには、残りのすべてを捨てねばならない。


【模範解答】

(1) There always occurs some trouble in traveling abroad

which should be originally fun.

For example, it is not so rare a case where your flight would be

canceled accidentally on account of bad weather or a natural

disaster and then you would have to stay abroad longer.

In any trouble, you need a critical attitude that you will try to

solve the trouble you are involved in, by observing the real

situation around you without irritation, making full use of your

own geographical knowledge and information about the region

you are located in, and utilizing your ability of speaking its local

language as much as you can.

 


(2) When you are talking with somebody, and if you reveal him

that you have some favorites, whether they may be music

works or movies, then you are immediately asked by him in

most cases: "then, what is your most favorite one ? ".


If you try to answer this question directly, you will find it would

be pretty hard to answer it. As far as you are a movie fan or a

music fan at all, it would be quite natural that you have so many

favorites you can select all at once. So, when you attempt to

choose only one of them as your most favorite, you will have to

put all the rest aside.
 

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追い詰められた、自称「保守派」ナショナリストたちを嗤う

2011/02/14 02:52

 

昨日、とあるTV番組で憲法改正論議が取り上げられ、桜井よしこ氏が出演して「戦後憲法はアメリカの押しつけ」「憲法9条は捨てるべき」という、いつものワンパターン的論説を繰り広げ、スタジオの聴衆から拍手喝さいを浴びていた。
(他の論客もナショナリスト的な論調ばかり)

 

このTV番組は、安倍晋三とか、西村真悟、田母神俊雄といった右派の論客ばかりを呼んで盛り上がっているのだが、この人たち、いわゆる自称「保守派」ナショナリストたちは、なぜ自国を自画自賛ばかりし、他国を蔑視・敵視すること発言しかできないのか、なぜそれほど日本人を自己肯定、自画自賛しなければ日本人としてのアイデンティティを保てないのか、あるいは「日本人だから」という概念にこだわらなければ、世界や社会のあるべき姿を論じられないのか、筆者は理解に苦しむ。

 

憲法前文も変えるべきだいう彼らの論点は、日本の国の法律なのに、前文で「諸国民の安寧秩序」が記されているからだ、そんなものは不要であり、それは戦勝国の論理にすぎない、という偏狭な意見である。

 

この憲法前文の諸国民が誰を指すのかという歴史実証的分析とは別に、この「崇高な理念」の中身が、現代社会、あるいは今後将来世代のグローバルな国際社会において、どのような意義を持つのかを、彼らは一瞬たりとも考えられる想像力はないのだろうか。

 

これに対して、日本人だろうが中国人だろうがイスラエル人だろうが、人間としての普遍的な倫理、人間としての正義や権利を説く論調は、昨今の日本には見当たらない。(NHKの『ハーバード白熱教室』という番組は例外だが、あれはあくまでアメリカの大学の授業風景の紹介だ)

 

もう一つの問題は、彼らが日常的な自己批判機能を完全に喪失してしまっていることである。先の憲法前文の問題にしても、9条の問題にしても、アメリカとの関係においてしか捉えていないのは、一面的な被害者意識といわざるをえない。

 

これらの不健全な言論は、日本が少なくとも第2次世界大戦においては最大の被害国であったと同時に加害者側でもあった、という事実への認識がまったく欠落している。

 

つまり日本軍が対アジア諸国に対して、太平洋戦争中に行った一連の軍事行動や爆撃、略奪、侵略の数々の行為を顧みるのならば、今の憲法9条や憲法前文が、当時このような文面で対外的に示さざるをえなかった背景がおのずとわかろうというものだ。

 

それを、アメリカや戦勝国との関係だけにしか目をやれず、自分たちが過去に自国民も含め、アジアの人々や社会に対して犯してきた、さまざまな自らの災禍や過ちに対して、まったく触れようとしないというのは、責任転嫁、ご都合主義もよいところである。

 

一方で、ドイツは戦後、アウシュビッツなどの収容所での一連のユダヤ人への蛮行、虐殺に対する反省をいち早く国内に向け、義務教育の場でそれらを何度となく自己反省的に反復することで、未来の世代にその過ちを伝えることに成功した。

 

それに対して日本は戦後、教育の場でいったい将来世代に対して、戦争の過ちについて何を伝えてきたのか。「自虐史観」などと言うが、自虐史観すら持っている日本人は少ないどころか、それらを批判する一部の論調こそ無反省、すなわち結果的に「自虐的」な被害妄想に凝り固まっているだけではないのか。

 

雑誌もTVも新聞も、いたずらに近隣諸国を叩いたり、近隣国民を罵倒したり、外国人対日本人という二分法で、日本人の態度や日本文化、日本の技術を称賛したり、「俺はこんなに偉いんだ」「俺の言うことは正しかったんだ」「俺はこれだけ立派で優れているんだ」と、絶えず互いに言い合って、自分たち自身を慰め合っているだけのような気がしてならない。日本人というより、人として、見るからに情けなく、哀れではないか。

 

いわばこうした限りなく自画自賛、横柄な態度しか取れない論調傾向は、自分自身のアイデンティティを喪失した国民の末期的症状を現しているのかもしれない。逆にいえば、それだけ自分自身が追い詰められ、心理的なよすがを喪失していることに対する、最後の抵抗、心理的な「防衛機制」なのかもしれない。

 

この、「無限の自己肯定」「日本人の自画自賛」の、へたれ「保守派ナショナリズム」の論調の背景にあるのは何か、何が彼らを自身そうせしめているのか、ご意見を伺えれば幸いである。

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古い政治、政治家は去れ (新しい酒は、新しき革袋に盛れ)

2011/02/08 01:11

 

名古屋トリプル選挙、誰の目にも予想通り、河村陣営の圧勝である。
それは名古屋市民でなくとも多くの国民が容易に予想し得ていた結果である。

民意を受けて改革しようとする首長が当選され提案を諮るのをことごとく
議会が旧態依然の慣習と儀式に則って拒絶し、首長を拒否しいじめ続ける
限り、一歩も改革は進まない。

阿久根市の前市長はそれでキレたわけであるが、やり方がマズ過ぎた。
その点、名古屋市の市長は、知名度を生かして住民投票にまで持ち込んだ。
現行制度下で出来る、議会つぶしの最大かつ最良の戦略だろう。
その点では、河村陣営はあっぱれとしか言いようがない。

議会が最新の民意を反映しない以上、解散はやむを得ない結果である。
これは誰が問題というわけではなく、間接制民主主義という制度自体の
欠陥に由来しているからである。
タイムリーな民意を反映するシステムがあれば、阿久根市や名古屋市の
ような、あるいはかつての田中康夫の長野県のような事態は起こりにくい
はずであるし、「ねじれ国会」も起こらない。

政治は、真剣に議会制度自体のもつ機能不全をこの機会に検討すべきである。

「首長政党」は政党の体をなしていないが、それでも人気が集まるのは、
偏に既成政党に対する「不信感」の裏返しである。

既成政党はこの際、民主党自民党も解体すべきであり、全部をガラガラポン
にして、新しい民意を反映するべく改革の旗手となる人たちの集まりと、
既得権益を頑強に守ろうとする保身勢力とに淘汰されるべきだろう。

今回の愛知県民、名古屋市民の投票結果は、別に新しい政治に期待する
メッセージではなく、今の政治にはうんざり、不満だらけ、何とかしろ、
いうメッセージそのものである。

それを「まったく理解できない」民主党の選対委員長は、やはり過去の
アナクロ政治家であるとしか言いようがない。

今置かれている自党の立場に対する国民や市民の評価を感じ取れない
ピントずれの証拠である。このような有権者の政治感覚や時流を読めない
政治家は今の日本の政治には不要である。
 

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日本の政治的封建主義を「脱出」する

2011/02/06 02:47

 

「立志」だの「維新」だの、日本の政治家や政治家をめざす人々は、幕末時代の用語を未だ好んで用いたがる。尊敬する人物も、坂本竜馬、徳川家康、織田信長、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作といった、いずれも古い武士や志士をあげる人がやたら多いのも特徴だ。

 

こんな(今に言うと)封建社会の名残である軍人、軍師ばかりを尊敬の対象にするような政治家の多い国は、あまり他の国には見られないので、面白い限りだ。

 

ただそういう時代をスリップしたような政治感覚の政治家ばかりが輩出されるのあれば、そう面白がってもいられない。今は幕末でも戦国時代でもなく、世界がインターネットと無線でつながれ、ボーダーレス化した、後期資本主義のグローバル経済の時代である。

 

しかし日本では、国際ビジネスやIT業界の最前線とは裏腹に、政治の世界だけが200年以上意識も状況もずれて化石化しており、「井の中の蛙」と化しているようにさえ見える。

 

その大きな要因が、政治家を育てる土壌にあるといえる。

たとえば「政治家養成塾」といった若手政治家を育てる動きが盛んだが、これらは「ゼミナール」でも「キャリアスクール」でもなく「◎◎塾」という呼び名が好まれる。

 

ネットでそれらしいものを探したら、以下が見つかった。

 

1)若手政治家養成塾

http://wakateseijika.seesaa.net/

2)鈴木こうじ政治塾

http://challenge29.sakura.ne.jp/

3)政治家養成塾

http://www.shimin-net.com/jukuinfo.html

4)いわて平成松下村塾

http://www.iwanichi.co.jp/tankoh/item_21360.html

5)小沢一郎政治塾

http://www.ozawa-ichiro.jp/seijijuku/

6)ぐんま政治塾

http://www.jimin-gunma.jp/academy/index.html

7)静岡青年政治塾(自民党静岡県連主催)

http://yonepen.exblog.jp/10266635/

8)みんなの政治塾(みんなの党主催)

http://www.your-party.jp/guides/school.html

9)北海道政治塾(自民党北海道連主催)

http://ameblo.jp/seiji-jyuku/

10)上田政治塾

http://blog.morita-k.com/?eid=942843

11)松下政経塾

http://www.mskj.or.jp/

12)林正臣政経塾

http://shinsaku.seesaa.net/article/159543954.html


 

ちなみに、

1)のブログに掲載されている、典型的な街宣トレーニングの写真は、まさに日本の選挙スタイルの象徴の刷り込みともいえるものだ。

10)の設立趣意書の中に、「徳川幕府末期における志と情熱を持った雄藩に思いを重ねている」とある。

 

名前をつけるのは自由であり、名前よりも中身には違いないのですが、これらの「塾」はいずれも理念といい、趣旨と言い、スタイルと言い、どれも型にはまったものばかりで、どれも今日のグローバル時代の政治を担う、国際社会感覚と予測能力を身に付けた人材を輩出できるような教育環境であるとはとても言い難い印象である。


なぜこうも政治を育てる土壌だけが「ガラパゴス化」してしまうのか。

 

それは恐らく、先進的な諸外国の政治システムや世界規模での政治の動き(たとえば国連機関や国際機関、国際NGO)に無頓着であり、それらの基礎情報が圧倒的に不足しているのと、それらをヒントにし、学ぼうとする姿勢があまりにも欠落しているためだと思われる。

 

もちろん今の政治家養成塾に通う塾生たちも、個々の政策課題については諸外国の事例を研究し、参考にはするだろう。


しかし問題は個別的な政策論議ではなく、それらを統合する政治的ビジョンやコンセプトであり、その背景にある「政治思想」なり「政治的価値」にもとづいて、体系的に把握し思考できているかどうか、という点である。

 

さて、現代の国際社会がいずれもめざす価値基準は「持続可能な発展」「SR(社会的責任)」のための価値基準であり、しかもそれらは一国のひとりよがり的な伝統的価値観や、19世紀的な国民国家思想にもとづく偏狭なナショナリズムではなく、それらを超えた共通の普遍的価値である「民主主義」「社会的公正」をめざす政治的価値が最優先されるべきだ、という考え方である。

 

個々の環境問題であれ、労働・社会問題であれ、財政問題であれ、今日の政治の目標とすべき政策や方向性は、すべてはこれらの共通価値にもとづいて「一つの源」から演繹される一側面、一要素にすぎない。

 

一方で、上記に挙げた「私塾」では、これらのグローバル社会の中で普遍的価値を探り、それを自国や地域レベルに落とし込み、人間としての良心を政治に反映・実現させようとする観点に立脚した「政治家」養成を行えているのかどうか、大いに疑問である。

 

それは既成政党で毎年実施されている「バックアップスクール」についても同様である。

 

結局のところ、今の政治家志望者は、先輩である現職議員の政治スタイル、政治生活、政治信条を「100%モデル」なり見習うべき対象として模倣し、受け継ぐにすぎない。しかるにそれ自体が果たして現在のグローバル社会に照らして「妥当なものであるのかどうか」「時宜に適した政治手法、政治スタイルなのかどうか」という疑問を持たれることはない。


他方で、世界の政治運営事情をいろいろ探ったり、実際に見聞してみると、実に彼らの政治スタイルなり政治志向が「奇抜」であり「ガラパゴス化」しているかが、手に取るようにわかる。ある意味で、滑稽さや違和感を禁じ得ない。

 

むしろ現在日本で活動しているNGOやNPO、国際非営利組織のほうが、はるかにその手法や活動スタイルにおいて「世界の政治の常道」を具現化している。

 

したがって、これから政治家をめざす人たちは、むしろ来るべき「持続可能な社会」のための政治の可能性やモデルを、普段着の市民活動の側にこそ求めるべきであって、逆にいったん政治塾や既成政治家の下で旧態依然の「政治家の型」を身につけ慣れ親しんでしまえば、この社会を良き方向に的確に導いていく力量も判断力も洞察力も期待できそうにないからである。

 

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夫婦別姓権は基本的人権である

2011/02/04 23:40

 

昨今、一般的に夫婦別姓に反対する者の論拠は「家族の絆の崩壊」という論点先取であり、外国人参政権への反対論拠は「日本が将来政治的に支配される危険性」という、何ら根拠のないショービニズム的偏見にもとづく一種のドミノ理論が圧倒多数である。

 

彼らの論拠にある欺瞞を崩すのはいともたやすいことで、今日すでに起きている家庭崩壊が「姓名の違い」に由来するものではないこと、それは別の原因によるものであること、互いの姓名が異なっても円満に家族形成がなされている事例が世界には無数に存在しており、その逆も無数に存在しているという事例を挙げるだけで十分である。

 

一方「家族」の精神的絆の重要性とともに、家庭を築きたくとも築けない境遇に陥っている人々や、同じ家族と見なされることで精神的・経済的苦痛や負担を強いられ、不利をこうむる人々(とりわけ女性や子ども)が相当数いる以上、すべてを「家族」という単位を基準に制度設計を図ることは、封建社会ならいざしらず、今日ではかえって個人(とりわけ女性や子ども)の精神的・経済的自立を抑圧する「諸刃の剣」となっているのが現実である。

 

そこで重要なのは、「最初に家族ありき」「最初に個人ありき」といった特定の倫理観を政治的に一方的に押しつけることではなく、さまざまな境遇に置かれた個人のさまざまな価値を、平等に認めるという「多様性への寛容」であるはず。 

 

同じく外国人参政権については、帰化すれば問題はなくなるのかという話や、すでに日本は在住外国人登録者を200万人以上受け入れており、彼らの基本生活を保障すべき義務があること、現実には彼らの多くが就労や教育、育児や公的サービスなどで多くの差別的待遇を余儀なくされていることを挙げるだけでも十分である。

 

参政権以前に、まず彼ら外国在住者個人や世帯の社会権を実質的に保障する義務が日本政府にはあると思いますし、同じ社会に生活する一個人として、彼らの立場に立つと、さまざまな社会的格差の問題が浮き彫りにされてくる。それらがかえって外国人たちの犯罪や地下社会の形成といった悪い方向に走ることを助長させてしまう事態そのものを問題にすべきである。

 

逆に日本から海外諸国に大勢移住している日本人の存在はどうなるのかと彼らに問いたくなる。海外に永住する日本人が現地の地方参政権を持つことは現地の地域にとって危険なのかどうか、日本人が大勢暮らしているリトル・トウキョウのような日本人町ができることは、現地の国の国民にとって脅威なのか、大きな危険なのかどうかという、逆の立場で眺めてみることが賢明だ。(すでに日本にもチャイナタウン、コリアンタウンも複数存在しているが)

 

その意味でも、永住・定住外国人を同じ一地域の住民として平等に政治参加=参政権を認めることは、彼らへの社会的差別や社会的権利格差解消の是正に一歩近づくことになる。しかるにそれは地域社会、地域のまちづくりにとってはプラスに働くはずであり、実際に多くの外国人労働者を受け入れたドイツなどは、それにより地域の経済的・文化的再生が一定度成功をみている。

 

 

私はこれらの民主主義社会では当然とみなされる価値に、伝統的価値を対峙させて執拗に反対論拠を掲げる人々は、自国の(すでに過去の産物と化した)復古的価値を絶対視するあまり、平等であるはずの他国の価値を否定・排除しようとする一種のゼノフォビア(外国文化や外国人に対する偏見や蔑視)思想を潜在的に持っているか、精神的に自己のアイデンティティ確立が未熟なため、ひたすら他者や少数者を仮想敵として非難・排除することにより自己正当化の論理を図ろうとする強迫神経症が心理的背景にあるのではないか、と分析する。

 

むしろ、こういういわれのない一部の偏見や差別的観点と闘い、世界に住むすべての個人が出自や国籍、性別や民族に関係なく等しくその価値観や違いを尊重し合えるような「多様性(ダイバーシティ)を認める社会」こそが持続可能な民主主義社会である。

 

真の民主主義社会を肯定する主権者であれば、誰しも根も葉もない偏見やドミノ理論に心を奪われることなく、社会に住むすべての人々の自由・平等・民主主義を守るという強い「持続可能な社会の基本価値」を揺るがすことなく、信念とリテラシー精神をもって権利義務を主張すべきだろう。

 

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統合政策なき、実は旧態体質の時限政党「みんなの党」

2011/01/30 03:34

 

公務員制度改革」「脱官僚」のアピールで脚光を浴びてきたみんなの党。
 

確かに中途半端な民主党のムダ遣い撲滅政策に比べてラディカルで徹底した
政策公約のイメージが強い。

マニフェストの個別政策を見ても共感できるものも多い。
http://mainichi.jp/select/seiji/09shuinsen/etc/manifesto/08.html

 

しかし、それらの前提には新自由主義の原理である「小さな政府の実現」論が
歴然として存在する。
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/100623/mca1006230504013-n1.htm

 

80年代に欧米で話題になった「小さな政府」か「大きな政府」論を
再び振りかざすような時代遅れの政治的構図で自己正当化を図ろうとしても
この時代の社会的時流の核心にも触れられないばかりか、同党が掲げる
「生活重視」型の社会が構築できる道理がない。

 

仮に「小さな政府」の実現を最優先に政策を実行すれば、みんなの党の公約
である「奨学金制度の拡充」「子育て手当を欧州並みに」といったサービス
すら、民間に丸投げするか、政府の財源でまかなうべきではないという議論
になるか、政府の手で十分に実現できなくなるのは必至だ。

 

「小さな政府」路線を徹底するなら、防衛と治安維持以外はすべて民間に
任せてしかるべきという、小泉・竹中路線をさらに突き詰めることになる
だけであり、この弊害によって露呈した現在の失業や貧困の問題に何ひとつ
反省の目を向けられないことになる。

 

そもそも持続可能な社会を構築するのに、問題の核心は「小さな政府」か「大きな政府」かではない。
持続可能な社会とは「公正で生活格差の少ない、生活のセーフティネットが
完全に機能する共生社会」であり、それは従来型の経済成長理論や成長型の
価値観に則るべきではなく、新たな生活座標や価値観にもとづくべし、というのが昨今の欧米での主流議論である。

 

ところがみんなの党は依然「経済成長4%」といった、従来型の旧態依然の市場経済社会の延長ビジョンしか持っていない。

 

これでは今、欧米の先進工業国の政策ビジョンの中心となっている
「社会的公正」の問題、すなわち自殺や精神疾患、貧困、社会格差、
ホームレス、雇用難、生活保護、凶悪犯罪、孤独死、派遣切り、いじめ、
社会的排除、過労死、DVや児童・障害者虐待、医療介護要員不足といった、
まさに予算的にも多くの社会的負荷=マイナス要素を取り除くことが困難
になるばかりでなく、それらがさらにエスカレートし、国家財政や運営を
ひっ迫させることになるのは目に見えている。
これらは単に財源=カネを生み出せば解決できる問題ではないからだ。

 

ジェンダー主流化」「マイノリティの権利保障」といった問題にも
みんなの党は無頓着である。
そもそもグローバルな経済社会の弊害である南と北の富の配分の格差、
それによって起こされる国際紛争や環境破壊、人権蹂躙や治安悪化と
いったグローバル経済問題を、みんなの党はまったく無視している。

 

その証拠に、みんなの党は「TPP」に対しては「早期参入を支持」
する立場である。
http://www.nhk.or.jp/news/html/20110129/t10013713301000.html

しかし農協の独占市場や減反政策が継続されている現在の体制の下で
TPPをいきなり実現させれば、過労死や過剰労働が減らない下で
いきなり「成果主義」を導入するのと同様に、農業労働環境はさらに
悪化し、日本の農政は実質上壊滅するだろう。
そもそも物事の順序が逆であり、本末転倒なのである。

 

こうした時限的政策の連呼では、今の民主党政権と同じで、とても
「持続可能な社会」への前進が図れるわけがないだろう。

 

仮にみんなの党がキャスティング・ボートを握って政策を次々に履行
してもこの国の社会状況はいっこうによくならないし、現政権と同じく
根拠のない数字と皮算用で有権者にハッタリをかけるだけで、
その公約が次々と失敗に終わり、日本の政治はさらに停滞するだけである。

 

要するに中長期的な社会ビジョンとそれに向けての統合的政策が存在
しないことが、みんなの党の最大のネックなのである。

 

この期に及んでも単に人気取り戦術に走る「みんなの党」が、10年後に存続しているかどうかすら、疑わしい。


この手の「時限政党」はやがて党首の交代を機に離合集散し、再び既成政党
の枠組みの鞘に収まっていくだけであろう。

 

筆者には、少なくともかつての「新進党」とか「新自由クラブ」のような
存在理由以上のものを、みんなの党には見てとれない。

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